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micro breweryを育む「三軒茶屋」の地域と水

2020/11/16

最終更新日:2021/11/01

こんにちは。三軒茶屋醸造所 杜氏の戸田です。
本日は、醸造所を構える「三軒茶屋」という土地についてざっくばらんに紹介していこうと思います。
渋谷から2駅に位置する東京都世田谷区三軒茶屋。そこで酒造りをしている、というと「水はどうしているの?」と気になる方も多いかもしれないですね。

1.大山詣り最初の休息地「三軒茶屋」
2.水の豊富な土地性
3.酒造の始祖「大山阿夫利神社」

三軒茶屋醸造所

1.大山詣り最初の休息地「三軒茶屋」

まずは“三軒茶屋”という名前の由来について。
ときは江戸時代にさかのぼります。江戸の時代になるまで多くの東京の地は関東平野が広がるただの田舎でした。幕府の中心地が江戸に移り、そこで数々の文化が花開きますが、やはりそれも東京の中でも東のほうがメイン。
今でこそ高級住宅地となっている三軒茶屋などのエリアは、昔は田んぼが広がるエリアだったと言います。

さて、江戸の時代は庶民の娯楽/レジャーとして「〇〇詣り」というのが流行っていました。
長屋などの人々で連れ立ってお参りいく旅行にでるのですね。往復一週間くらいかけて神社にお参りし、お土産として御札を持ってかえるような旅が江戸っ子のレジャーとして普及していました。

その中でも特に有名なのが大山阿夫利神社へと参拝する「大山詣り」
ちなみにこちらは落語の演目にもなっているほどです。気になる方は検索してみてください。平成二十八年四月には「大山詣り」が日本遺産に認定をされています。

大山阿夫利

出典:大山阿夫利神社

大山詣りに利用する道は大山街道と呼ばれ、商流にとっても重要な道でした。そして、三軒茶屋は大山街道沿いに駅がございます。東京から出発する大山詣りの、最初の休息地点として栄えた場所が三軒茶屋だったのです。

また、そこには休憩地点として本当に三軒の茶屋があったといいます。そう、実際に“三軒の茶屋があった”から三軒茶屋という地名になったのですね。おったまげますね。

ちなみに三軒の茶屋というのは信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋。
田中屋は今でも田中屋陶苑として営業を続け、また信楽の茶屋の末裔である店主が駅前に「志が良㐂」というお店を構えています。実はここ、フランスに旅立つ前の初代三軒茶屋醸造所杜氏が行きつけにしていた名店でもあります。

 

2.水の豊富な土地

さて、それではなぜ三軒茶屋に三軒の茶屋があったのか?ということですが、そこには三軒茶屋エリアの土地性に注目する必要があります。

実は、このエリアは昔から湧き水がよく出たりと水が豊富だった地域なのです。それは周辺の土地をみてもわかります。

①池尻
ご存知、田園都市線で三軒茶屋駅と一つ隣の駅である、池尻大橋。もとは池尻と大橋は別の地名でした。

池尻の由来は、北沢川と烏山川が合流し目黒川となる付近の沼沢地帯に「蛇池」とも「龍池」とも呼ばれていた池があり、その畔であったことからついたそうです。池尻の「尻」とは「出口」という意味で池や沼や湖が川に落ちる部分のことを指し、「いけしり」や「いけのしり」という呼称もあるとか。

②駒繋神社
三軒茶屋地域に「駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)」という由緒ある神社がございます。こちらの神社の由緒は以下のように云われます。

時は鎌倉時代、源頼朝公が奥州藤原氏征伐にあたり大軍を率いて多摩川を渡り、今の目黒区と世田谷区の境の道を渋谷に向って進む途中、乗馬にて沢を渡ったところ、馬が何かに驚いて暴れだし、沢の深みに落ちて死んでしまいました。
この場所は、砂利場といわれ赤色の山砂利が出るところでした。そのため、馬を引き上げようとしても砂利が崩れて引き上げられず、馬が死んでしまったので、沢の岸辺近くに葬り塚を作り、馬が芦毛であったため芦毛塚と名付けられました。
出陣にあたって総大将の馬の死は不吉である、程近い「子の明神」にて祈願をされては、と農家の姥の進言にしたがい「子の明神」で戦勝祈願をして奥州に向いました。
この故事により「子の神」が「駒繫神社」とも呼ばれるようになり、明治以降に正式に「駒繫神社」と称せられるようになったのです。

江戸名所図会 馬牽澤古事

出展:駒繋神社

ここからも、水が豊富に出ていたことが分かります。

③下馬/上馬
三軒茶屋地域の地名を指します。

上述の源頼朝公の古事により駒繫神社付近一帯を「下馬引沢村」(馬から下りて沢は引いて渡る村)と呼ぶようになり、大正14年に町制がしかれたため、引沢村が取れて下馬になりました。
また、上馬、下馬というのは省略された地名で、江戸時代の初め頃は馬引沢村という一つの村だったとも云われます。初代三軒茶屋醸造所杜氏の住居は上馬で、二代目三軒茶屋醸造所杜氏の住居は下馬です。

④蛇崩
上記の逸話の際、源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命し、この沢を「馬引きの沢」と名付け、この沢は、蛇崩川で砂崩川とも書かれ、地名にまでなりました。「砂崩(さくずれ)」が、「じゃくずれ」に転化し、付近を流れる蛇行屈曲した川の状態から、「蛇崩」の文字を当てたのではないか」とも言われます。いずれにしても、蛇崩地域の北側を蛇行する蛇崩川が浸食した地形がもたらした地名と言えます。

またこの他にも近くには江戸時代よりどんな渇水でも水が枯れなかったという謂れを持つ井戸もございます。このように水が豊富だったからこそ、茶屋ができたのではないかと想像できるのです。

 

3.酒造の始祖「大山阿夫利神社」

さて、そんな水が豊富な三軒茶屋ですが、そのまま大山街道を下った先にある大山阿夫利神社では大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)が祀られています。
大山祗大神は、山の神/水の神として、また大山が航行する船の目印となった事から産業/海運の神としても信仰されています。別名、酒解神とも呼ばれ、酒造の祖神として信仰もされております。

三軒茶屋醸造所の酒造りでは、三軒茶屋の湧き水を仕込水として利用しています。
昔から水が豊富で、しかも休憩地点の先には酒造の祖神も祀られる、酒造りにはうってつけの地の水です。そんな三軒茶屋醸造所の魅力を感じられる商品がこちら。

三軒茶屋のどぶろく 水酛



三軒茶屋醸造所 戸田京介
Text by TODA

WAKAZE三軒茶屋醸造所2代目杜氏。
埼玉県戸田市出身。名字と出身地が同じという稀有な人材。肩書の長さには自信がある。会うたびに髪が長くなっているとの噂があり、社内でも髪型の方向性がわからないという声が度々上がる。酒造履歴としては、三軒茶屋醸造所立ち上げ直後から蔵人として杜氏 今井翔也に師事。同年冬には千葉・木戸泉酒造と群馬・土田酒造にて修行し、翌年9月の今井渡仏にあわせて三軒茶屋醸造所での酒造業務を任される。2020年4月より、三軒茶屋醸造所杜氏として指揮をとる。

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